2010年5月12日水曜日

5年に1度のベルギー・ゲント国際花博で審査員


①甲子園球場より広い花博会場

②世界から集まった審査員(非白人は私だけ)

③アザレアがメイン

④あいかわらず盆栽(Bonzai)は人気

⑤今回は常緑樹の展示が増えた



ベルギーという国は、日本ではあまりなじみがありません。花といえばオランダですが、ベルギーはオランダのお隣、工業国であるとともに、花の生産国です。オランダの大規模企業経営に対して、ベルギーは個人経営の花づくりで、日本人には親近感があります。



ゲントは、中世そのままの石畳が美しい観光地であるとともに、アザレアの産地です。日本ではアザレアの鉢物はあまり目にしなくなりました。アザレアと日本のサツキ・ツツジはどう違うのか。日本のサツキ・ツツジが江戸時代、シーボルトなどプラント・ハンターにより、ヨーロッパに伝えられ、改良されたのがアザレアです。ゲントでは、アザレアをアザレア・インディカ、サツキをアザレア・ヤポニカとよんでいました(植物学的には正しくはありませんが)。ですから、200年の歴史を誇るゲント国際花博は、超巨大なサツキ祭りといえます。



ゲント国際花博に審査員として参加するのは4回目です。なぜ、ベルギーの花博に参加するようになったかを説明しなくてはなりません。そもそもは、2000年に開催された淡路花博の宣伝を兼ねて、1995年に兵庫県が出展したときに、私も審査員として参加しました。それ以来、1995年、2000年、2005年と今回で4回目の参加です。毎回、イースター休暇にあわせて開かれ、今年は4月14~25日でした。国際博覧会ですから、審査員の数も膨大で、今回は36班、216人でした。地元ヨーロッパに、カナダ、オーストラリア、アメリカなどの人たちで、白人でないのは私だけす。私の2F班はフランス人2人、ドイツ人、カナダ人と審査補助の地元のアザレア農家の構成で、観葉植物を担当しました。花博会場は広大で、超巨大な体育館に、植物を植え込んだ状態です。会場の面積は甲子園球場(約4ha)より大きい4.5ha(45,000m2、13,500坪)で、入口から出口まで歩くだけで2時間かかります。



さて、はじめて参加した15年前と比べるとベルギーの花産業は大きく変化しました。



①花づくりの勢いがなくなりました。会場面積はかわっていませんが、出展の国の数が減り、ヨーロッパの花産業のかげりが感じられました。15年前はアールスメア市場などオランダが圧倒的な存在感でしたが、今回はまったく目立ちませんでした。



②一般経済にも変化が見られました。花博会場前の広大な芝生広場に巨大なIKEAが建っていました。首都ブリュッセル市内でもルイヴィトンなどの高級店にかわり、H&Mがやたら増えていました。



③これまでのしつこいほどのアザレアの割合が減りました。さすがにベルギーの人も暑苦しさを感じるようになったのでしょうか。かわって、前回はオリーブ、今回は孟宗竹に、日本ではどこにでもある常緑の雑木が増え、緑の落ち着いた雰囲気になりました。



④日本では見かけることが少なくなった観葉植物アナナナス類などが復活して、巨大なオブジェとして大量に使われていました。



⑤あいかわらず盆栽(ベルギー産、Bonzai)は人気でした。ベルギー人がイメージしたドラゴンにドラの音が響く、中国とごっちゃになった大きな日本庭園も出展されていました。日本ではイングリッシュガーデンやピーター・ラビットの庭が人気ですが、ヨーロッパでは日本庭園が憧れです。



毎回参加して思うこと。



その一 語学力の大切さ。ベルギーではオランダ語とフランス語が公用語で、ドイツ語も話し、英語も堪能です。審査もこの4か国語ですすめられ、私だけが置いてきぼりです。毎回、帰国後、英語を勉強して5年後には・・と反省するのですが、決意は夏までも続きません。



その二 せめて花の名前だけでも話せたら。世界共通の名前が学名です。今回の担当は観葉植物でしたので、日本での呼び名は学名そのままです。ベゴニア、カラテア、チランジア・・・で通じます。しかし、むつかしいのが今回大量に展示されていた日本ではどこにでもある樹木です。ツバキはカメリアですが、カシ、クスノキ、ツゲ・・・の学名は?花屋さんはフラワーデザインなどを勉強に、ヨーロッパに行く機会が多いはずです。外国人と花の名前を話すには学名が必要です。






今回も反省ばかりのゲント国際花博でした。おまけに、火山爆発でブリュッセル空港に1週間も立ち往生。日本へ帰れてよかった。


2010年5月3日月曜日

102年目の母の日と96年目の母の日

銀座ソニービル「母の日イベント 銀座に5,000本の国産カーネーション畑」(2010年4月6~11日)

                       今年の母の日は5月9日


「母の日」に、秘められた思い。
ここに一つの調査がある。

「母の日」の由来を知っていますか。

以前から知っていた・・・・29%  知らなかった・・・・71%

日本人にもなじみ深い5月第2日曜日の「母の日」。しかしその誕生に秘められた思いを知っている人は、決して多くはない。

これは朝日新聞4月30日の全面広告です。

朝日新聞は、「母の日」の由来を知っている人が29%を「決して多くはない」と書いていますが、29%もの人が知っているのはスゴイことではないでしょうか。花業界に身を置く人たちでさえ、由来を知っている人はそんなに多くはありません。その証拠に、2年前の2008年は「母の日100年」でしたが、花業界で100周年記念イベントはありませんでした。なにわ花いちばでもカーネーション担当者が、手作りの「母の日100年」ポスターを場内に張り出しただけでした。せっかくのビジネスチャンスを逃していたのです。


「母の日」の由来については、この朝日新聞記事をはじめ、いろいろ書かれています。


ここでは、月刊誌「実際園芸」1928年(昭和3年)5月号の記事をご紹介しましょう。実際園芸誌は、現在の誠文堂新光社「農耕と園芸」の前身です。


まず、1928年(昭和3年)当時には「母の日」という名称はまだなかったようです。


記事の題名は「園芸家の忘れてはならぬマザーズデーの話 恩地 剛」。英語そのままの「マザーズデー」が使われています。



「フィラデルフィア州のアンナ・ジャービス嬢は、非常に母思いの深い人であり、年々5月の第二日曜日を、その母への感謝日と定めて、母の属する協会に、母の最愛の純白色のカーネーションを装飾し、日曜学校の子供達や、自分の友人知己、協会の仲間を招いて、賛美歌「母を慕う」を合唱してもらい、来会者一同には純白のカーネーションを胸に飾ってもらうことにし、心からの感謝と愛慕をその母に捧げたのであります。これが年とともに、驚くべき勢力をもって今日の如き流行をみるにいたり、アメリカ政府は、国祭日の一つに加えたのであります。私は、やがてこの流行がわが国にも渡来し、かつ歓迎されるものと信ずるものであります。」


この記事を書いた恩地さんが願ったように、日本でもマザーズデーは「母の日」と呼ばれるようになり、一大イベントとなりました。


さて、「母の日」のひとつの起源は、1908年(明治41年)にアンナ・ジャービスさんが、日曜日の礼拝で、参列者に白いカーネーションを手渡し、亡き母をしのんだことに由来します。しかし、アンナさんはもともとたいへん信仰心が厚い方で、それ以前からお母さんに感謝することを、みんなに説いていました。ですから、あえて1908年にこだわる必要はありません。



それより、1914年(大正3年)に、ウイルソン大統領が5月の第2日曜日を国の祝日にしたことが、正式な「母の日」の起源でしょう。そうすると、2010年5月9日は、96回目の「母の日」で、「母の日100年」は、4年後の2014年(平成26年)になります。そのときには国をあげての大イベントにしましょう。

みなさん、「2014年(平成26年)母の日100年」をお忘れなく。