2011年2月21日月曜日

啓蟄(けいちつ)~灰色かび病注意報~


季節は正直。

立春を過ぎると日差しが一挙に春めいてきます。

3月6日は、冬ごもりしていた虫が動きだすという啓蟄(けいちつ)。

動きだすのは虫だけではありません。

かびも動きだします。

かび=灰色かび病=ボトリチス=ボト、です。

1月、2月は太平洋側では晴天続きのからから天気。2月下旬は季節の変わり目。ぼちぼち雨の日が増えはじめ、湿気が増していきます。一雨ごとに春になる。

かびのシーズン到来です。

立春をすぎると自然界は春モードにスイッチが切り替わっています。

いつまでも冬のつもりでいるのは、自然の営みから遠く離れてしまった人間だけ。

上のグラフをごらんください。


棒グラフは日差しの強さ(日射量)。3月はじめの日差しは10月と同じです。

10月を思い出して下さい。暑かった夏が過ぎ、やっと涼しさが感じられるようになったのが10月です。

そのときの強い日差しと同じです。

体感的に冬のままなのは、折れ線グラフの平均気温にあります。

日差しは10月でも気温は12月下旬と同じ。人間は気温優先、植物は光優先。

人間にあわせて栽培管理をすると、植物は軟弱徒長になります。

軟弱な植物は病気にかかりやすい。これは人間も同じ。

生産者にとって恐ろしい病気は、土に病原菌が増殖し、植物を枯らす「立ち枯れ病」。

しかし、立ち枯れ病はハウス内部だけの病気で、花屋さんや消費者が目にすることはありません。

一方、灰色かび病はハウスで感染し、輸送中に増殖し、市場や花店で発病します。

灰色かび病は生産者が思っている以上に花産業に大きな被害をもたらしています。

温帯モンスーン地帯にある日本は、かび天国。

醤油、みそ、納豆・・・。かびの国、発酵の国です。

花の消費拡大の第一歩は灰色かび病に感染した花を出荷しないこと。

経営改善の第一歩は灰色かび病の防除。

対策は、ハウス内の湿度低下。通風、乾燥。

温風機の送風だけでも効果があります。

冷蔵庫、選花場のかび汚染にも注意。

次に、輸送中のむれ、結露を防ぎましょう。

春の足音は、かびのシーズン到来の合図です。

2011年2月14日月曜日

坂の上の雲⑤三代目の時代

ガーベラの三代目とカーネーションの三代目が梅田でFVT共同作業(スプレーマムの二代目もいます)これは誰が撮った画像かわかりません



カーネーション三代目、たのむでぇ


昭和30年代から40年代の前半にかけ、カーネーションの立ち枯れ病が猛威をふるう。


植えた苗が次々と枯れる。


農薬が効かない。


農家は手をこまねいて、涙するのみ。


ちょうど現在の口蹄疫や鳥インフルエンザ状態。


できることは毎朝、枯れた株を抜き捨てることだけ。


対策は、米国のテキストに示されていた。


①無病苗

②土の消毒

③清潔な管理


その実現に、農家、技術者、研究者が邁進した。


京都大学から香川大学に赴任したばかりの狩野邦雄は、ランの組織培養の技術を生かし、茎頂培養によりカーネーションの無病苗をつくる技術を開発した。


その実用化には、滋賀農業試験場の武田恭明や兵庫農業試験場の藤野守弘など地方の農業試験場研究員があたった。


土の消毒では、岡山大学の小西国義や兵庫農業試験場の藤村良が蒸気消毒法を開発した。


あとは新しい技術を現場にどう生かすか。


昭和45年、香川の真鍋行雄、兵庫の井上金治、惣林坊義広ら全国の篤農家が集まり、日本カーネーション技術協会が結成された。


彼らの努力により、立ち枯れによるカーネーション生産壊滅の危機を乗り越えることができた。


昭和49年、日本カーネーション技術協会は、日本中のカーネーション生産者が結集する組織として、社団法人日本花き生産協会カーネーション部会に発展した。


その息子たち、真鍋光裕、井上正幸、惣林坊正は、後継者の全国横断組織、二世会を結成し、技術向上に取り組んだ。これは後に、生産協会カーネーション部会青年部に発展する。


現在は三代目、孫の時代。


真鍋佳亮・修平、井上雅俊、惣林坊和裕。


祖父、父からのバトン。


三代続く盟友、仲間、ライバル・・。


初代は、立ち枯れ病による脅威を克服した。


二代目は科学的栽培技術を定着させた。


輸入攻勢に打ち勝つのが三代目の役目。


高齢化が叫ばれている花づくりであるが、着実に後継者が育っている。


地域の中核。


「行き止まりの村」には彼らがいる。