明けましておめでとうございます。
2008年は花産業にとって厳しい年でした。
「あのトヨタでさえ赤字だから」と妙な納得をしていませんか。
わが国の本格的な花生産は、明治42年(1909年)のカーネーション生産に始まり、ちょうど100年になります。
この100年間、花生産は順調に拡大してきたわけではありません。
花生産が飛躍したのはいずれも未曾有(みぞう)のピンチの時代です。
1「最初のピンチ=飛躍」
明治末に産声をあげた花作りが、なんとか産業とし生きていけると確信できたのは、大正12年(1923年)、東京、横浜など関東の大都市が壊滅した関東大震災でした。不幸なことですが、慰霊祭などで花の需要が増大し、花を使う習慣が定着しました。
2「2回目のピンチ=飛躍」
次の飛躍は、昭和2年(1927年)の昭和金融恐慌です。現在の金融恐慌は100年に1度といわれていますが、その100年前(実際は80年前)がこの昭和金融恐慌でした。昭和金融恐慌は、農産物価格の暴落を伴いました。東北の農村では餓死者や娘の身売りが続出しました。
このとき、農民は生きるために現金収入が得られる花作りを始めました。農民は働き抜くことを範とされた時代に、投機性の強い花作りは道楽者、怠け者と白眼視されました。それでも先駆者は花を作りました。その結果、伊豆、淡路をはじめ、全国に花産地が出現しました。ところが戦前、隆盛をみた花生産は、戦争による統制経済で、「花作りは非国民」となり、壊滅します。
3「3回目のピンチ=飛躍」
終戦後、日本中が食糧不足で食うや食わずの時代に花産業は復活し、大きく飛躍をしました。新しい時代の到来を感じた青年たちは、親や村の人たちの反対を押し切り、かき集めたガラスや材木で温室を建て、花を作りました。今日の花栽培の長老たちです。
4「どうして経済危機、混乱の時代に花産業は飛躍することができたのでしょうか」
それは、「花は心の栄養」だからです。まさしく、「人はパンだけで生きる」ことはできないのです。人々は、大震災、空襲、不況など危機の時に、1輪の花に慰めを見出しました。
不況、不況といわれる今こそ、花が求められているのです。
ホームユース拡大のチャンスです。ピンチの時こそ花産業にとってチャンスです。
しかし、今までのままではピンチはピンチでしかありません。
しかし、今までのままではピンチはピンチでしかありません。
ピンチをチャンスにかえるには・・・
次回に続く・・・