砂川忠弥先生顕彰碑(淡路市妙勝寺)
昭和初期の神戸高級園芸市場(兵庫県生花の前身)
今、生産者が目指している花は、日本の国民がのぞんでいる花なのか。
今では考えられないことであるが、日本は貧しい国であった。ついこの間まで。
年号が大正から昭和にかわったころ、世界大恐慌にみまわれた。2008年のリーマンショックに比較される100年に一度といわれた大恐慌である。
大商社、鈴木商店が破産をした。銀行や大企業がつぎつぎと倒産し、都会には失業者があふれた。
農村では生糸輸出の激減、デフレによる農産物価格の暴落に加え、冷害による凶作が追い打ちをかけた。娘を身売りし、東北では餓死者がでた。
淡路島は農地が少ないうえに、農家戸数が多い。さらに、失業した次男三男が都会から戻ってきた。米麦だけでは生きてゆけない。農家の困窮は目を覆うばかりであった。
この悲惨な状況をみかねた農会(現在の農業改良普及センターに相当)の若い技術者たちは、有り余っている労力を利用して、集約的な花栽培に取り組もうとした。
島民の期待を一身に背負い「淡路の花建設の大使節」(新淡路新聞 昭和6年12月12日号)は、昭和6年12月、5泊6日の関東の先進地視察に旅だった。交通事情が悪かった時代の必死の思いの長旅であった。新田秀雄、砂川忠弥、土井清、斗ノ内昌一郎ら6名の津名郡農会の若い技手たちである。
視察先
静岡県:浜松、芳川村、飯田村の温室栽培(キウリ、メロン、カーネーション、バラ)
神奈川県:横浜市杉田町の温室、露地栽培(カーネーション、アスパラガス)
東京:玉川温室村(カーネーション)
千葉県:保田、富浦の露地栽培(キンセンカ、スイセン、アスパラガス、千両、コデマリ)
視察を終え、技術者たちは、淡路は関西の房州になりえると確信した。
翌昭和7年夏、3日間にわたり花卉栽培講習会を開いた。講師には、神戸高級園芸市場の畑中宏之佑を招いた。園芸家は技術を公開しないのがあたりまえの時代に、畑中は座学だけでなく、栽培技術をも懇切丁寧に教え、淡路の農民を感激させた。この畑中の長男が兵庫県生花(梅田生花)前社長、故畑中隆博である。
農会では早速に兵庫県から花卉栽培奨励金を得て、種苗を共同購入し、キンセンカ、ルピナス、矢車草、カーネーションなどを栽培した。農会技術者の熱心な指導のもと、切り花はよくできた。
キンセンカは反当たり400~500円と米の10倍以上の粗収入をあげることができた。これにより、一気に花栽培熱が高まり、淡路島は関西の重要な花の供給基地として今日に至っている。
このときの農会の技術者たちは自分でも花を栽培し、技術を向上させるとともに要職を歴任し、一生を淡路の発展にささげた。
新田は津名東農協組合長、県議会議長、砂川は初代東浦町長、土井は一宮町長、斗ノ内はカーネーション専業農家になり名人と謳われた。
淡路の花づくりのきっかけとなった農会技術者の関東視察から、来る平成23年には80年をむかえる。
80年のうち50年は坂の上の雲をめざし、必死で坂道を上り続けた時代であった。勤勉に働きさえすれば、花づくりは儲かった。儲けた金で温室を増やし、家を建て替え、子供に高等教育を受けさせた。
坂の頂にたってしまってからの30年は、目標を見失った時代が続く。働くことはいとわないが、どう働いたらよいのかがわからない。淡路の花づくりだけでなく、日本の花づくり全体がそうなってしまった。日本の国自身がそうである。
しかし、今さら坂の上の雲を見上げた貧しくハングリーであった時代に戻れるわけはない。
豊かな成熟した日本であることを自覚し、この国にあった花づくり、この国の国民が求める品質の花づくりを目指さすしかない。
今、生産者が目指している花は、日本の国民がのぞんでいる花なのか。
花が大きくて、茎が太くて長くて剛直な切り花はハングリーな国が求めている花ではないのか。
成熟した日本国の花は上品で、しなやかであるべきでは。
花業界のプロが品質を決める「裸の王様」状態になっていないか。
てはじめは、数多く開催されている品評会の審査員から、すくなくとも生産者、農業技術者を排除し、もっと普通の消費者の声を聞くことである。