カーネーション三代目、たのむでぇ
土の消毒では、岡山大学の小西国義や兵庫農業試験場の藤村良が蒸気消毒法を開発した。
昭和30年代から40年代の前半にかけ、カーネーションの立ち枯れ病が猛威をふるう。
植えた苗が次々と枯れる。
農薬が効かない。
農家は手をこまねいて、涙するのみ。
ちょうど現在の口蹄疫や鳥インフルエンザ状態。
できることは毎朝、枯れた株を抜き捨てることだけ。
対策は、米国のテキストに示されていた。
①無病苗
②土の消毒
③清潔な管理
その実現に、農家、技術者、研究者が邁進した。
京都大学から香川大学に赴任したばかりの狩野邦雄は、ランの組織培養の技術を生かし、茎頂培養によりカーネーションの無病苗をつくる技術を開発した。
その実用化には、滋賀農業試験場の武田恭明や兵庫農業試験場の藤野守弘など地方の農業試験場研究員があたった。
土の消毒では、岡山大学の小西国義や兵庫農業試験場の藤村良が蒸気消毒法を開発した。
あとは新しい技術を現場にどう生かすか。
昭和45年、香川の真鍋行雄、兵庫の井上金治、惣林坊義広ら全国の篤農家が集まり、日本カーネーション技術協会が結成された。
彼らの努力により、立ち枯れによるカーネーション生産壊滅の危機を乗り越えることができた。
昭和49年、日本カーネーション技術協会は、日本中のカーネーション生産者が結集する組織として、社団法人日本花き生産協会カーネーション部会に発展した。
その息子たち、真鍋光裕、井上正幸、惣林坊正は、後継者の全国横断組織、二世会を結成し、技術向上に取り組んだ。これは後に、生産協会カーネーション部会青年部に発展する。
現在は三代目、孫の時代。
真鍋佳亮・修平、井上雅俊、惣林坊和裕。
祖父、父からのバトン。
三代続く盟友、仲間、ライバル・・。
初代は、立ち枯れ病による脅威を克服した。
二代目は科学的栽培技術を定着させた。
輸入攻勢に打ち勝つのが三代目の役目。
高齢化が叫ばれている花づくりであるが、着実に後継者が育っている。
地域の中核。
「行き止まりの村」には彼らがいる。