明治42年(1909年)、米国シアトルから帰国した澤田が、東京中野に小さな木造温室を建て、カーネーションの栽培をはじめました。これがわが国のカーネーション生産のはじまりで、今年で100年になります。さらに、これが日本の本格的な花生産のはじまりでもあります。
カーネーションの父 土倉龍次郎
残念ながら、澤田はうまくカーネーションを作ることができず、志半ばで明治45年(1912年)亡くなりました。
澤田の後、日本のカーネーションを発展させ、「カーネーションの父」とよばれたのが土倉(どぐら)龍次郎です。土倉の人生は波瀾万丈です。
奈良県吉野の「日本の山林王」土倉庄三郎の次男として生まれ、25才のとき日清戦争後日本が領有した台湾に渡ります。先住民族の抵抗にあいながら1万町歩の植林を進めるとともに、台湾初の水力発電会社を設立しました。現在でも龍次郎は「台湾の林業・水力発電の先駆者」として歴史に名を残しています。
しかし、吉野の土倉家本家の財政が傾き始めたため、台湾の事業を財閥三井に譲り、帰国します。
明治43年(1910年)、東京目黒に温室を建て、菜花園と称し、カーネーション栽培を始めました。カーネーションの苗は駐米全権大使夫人であった妹、政子、横浜正金銀行シアトル支店長であった弟、四郎から送ってもらいました。
しかし、林業家、実業家がなぜカーネーション栽培をはじめたのでしょうか。
ひとつの理由は、当時の温室経営は今でいうところのベンチャー企業、IT企業で、最先端の事業であったからと推測できます。
そのため、明治末から大正時代に温室を経営し、カーネーション、バラ、メロン、トマトを栽培していたのは、農家ではなく、伯爵や子爵、実業家、アメリカ帰り、あるいは一旗揚げたい血気盛んな青年たちでした。かれらは多摩川左岸、調布村に温室を建てました。その地は玉川温室村と称せられ、、最盛期昭和10年ころには1万5千坪の東洋一の温室団地でした。
現在、温室村があった地帯の地名は、東京都大田区田園調布、日本一の高級住宅地です。
土倉龍次郎もカーネーション温室を経営しただけではありません。「初恋の味」でおなじみのカルピス社の設立に参加しています。戦後、長男富士男は社長をつとめました。下にあるのはカルピス社、社長室に掲げられていた土倉龍次郎の肖像画です。
澤田や土倉以後今日まで100年間に8,000人(戸)が、最も国民に愛された花としてカーネーションを作り続けてきました。
生産100年、もう一度カーネーションを見直してみてください。
母の日、5月10日はもうすぐです。