2011年1月11日火曜日

坂の上の雲②短期農業労務者派米制度

派米農村青年の横浜港出港(昭和31年(1956))




カリフォルニア・オックスナードの農場で厳しいイチゴの収穫作業が終日続く(写真は国際農業交流協会編 農業青年海外派遣事業五十年史)




今では考えられないことであるが、日本は貧しい国であった。ついこの間まで。

最近、花の産地を訪れると、ハウスや選花場で働いている若い女性を見かける。なにか様子がちがう。話しかけてみて納得。中国人研修生。

生産者は社長とよばれ、なんとなく偉くなったような気がする。

生産者同士の会話は、「うちの研修生は・・・」、「やっぱり中国人は・・・」。

日本人も、中国人研修生と同じ境遇にあったことを忘れている。いや知っている人はほとんどいない。若者は、昔からずっと豊かな国であったと錯覚している。

そんなに昔の話ではない。戦前でもない。

昭和30年代に、「短期農業労務者派米制度」があり、多くの農村青年が、研修という名目でアメリカへ渡り、農場で働いた。中国人のはなしではない。日本人が、である。農業労務者!。

昭和39年(1964)には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開かれた。日本が先進国の仲間入りを果たしたと考えられていた時代。すでにそんな時代であったが、農家の次男、三男は独立経営を目指して、アメリカに渡った。3年間一生懸命働いて強いドルを持ち帰り、土地を手に入れ、自分の農場をもつ、そんな夢をいだいて、過酷な労働に耐えた。

北京オリンピックが開かれ、上海万博が成功し、GNPで世界第二位になった中国からの研修生が、日本の3K職場を支えているのと、なんとよく似た光景か。

企業経営には安定した労働力が不可欠で、中国人研修生は有効な手段であることはまちがいない。

勤勉に働いて、企業農家になり、パートを雇い、中国人研修生を受け入れ、社長とよばれるようになった。

でも花が安い。年々、売り上げが減っている。

いまさら、カリフォルニアの地平線まで続く農場で、這いずり回ってキャベツを収穫し、イチゴを摘み取っていた時代に、日本人は戻れない。

今できること、しなければならないことは、「入」を増やし、「出」を減らすこと。

そんななこと誰でもわかっている。

それができないから困っている。

むつかしく考えるからむつかしい。

大きなことを考えるからむつかしい。

目の前の一歩。

「入」を増やすには、昨年7月29日「指の間から1円玉がこぼれ落ちています」で、説明しました。

本来得るべきお金を失っているイージーミスをなくすこと。

次に「出」を減らすには、生産コストを削減するより先に、生活費を少し減らしましょう。

農家はつきあいが広い。サラリーマンと違い、昼間、家にいるので世話役が多い。花生産組織の役員だけでなく、隣保長、農会長、農協総代、農協理事、土地改良区、農業委員会、消防団、同窓会、PTA、少年野球のコーチ、カラオケの会、公民館・・・。それぞれに総会、役員会、忘年会、新年会、花見、暑気払い、打ち上げ、旅行・・・。そして冠婚葬祭のおつきあい

おおきなおせわ?