2011年3月21日月曜日
一輪の花
花は・・・
のどの渇きをいやすことも、空腹を満たすことも、身体を温めることも、できません。
しかし・・・
花は、心の栄養、心を温めることができます。
日本で花生産がはじまって100年。関東大震災、太平洋戦争・敗戦、阪神淡路大震災・・・
さまざまな困難を、乗り越えてきました。困難を克服してここまで成長してきました。
昭和19年(1944年)6月5日、神戸大空襲。
兵庫県生花はすでに3月17日の大空襲で被災、あたりは一面の焼け野原。神戸合同市場だけが奇跡的に焼け残り、そこへ移転していた。
花の入荷は細々とではあるが、続いていた。しかし、もう売りようのない状態になっていた。
たくさんの被災者が仮事務所の前を西へ逃れていく。
三木、志染村の鷲尾実から出荷いただいたカーネーション「モーニンググロー」を表に置いた。
すこしでも慰めになったら・・
「どうぞ1本づつお持ち帰り下さい」
紙に書いて貼りだした。
バケツ3杯のカーネーション。
兵庫県生花、これが最後の花。
またたくまになくなった。
被災者は、花1輪に慰めを求めた。
(兵庫県生花30周年記念誌 石丸数雄回顧録)
平成7年(1995年)1月17日午前5時46分
阪神淡路大震災
兵庫県生花と神戸生花が入場している神戸市中央卸売市場東部市場も被災した。
神戸生花の研修生、長崎県佐世保のカーネーション農家後継者、浦新吾は社員とともに、花屋さんの安否確認、産地との連絡、市場機能の復旧と不眠不休で働いた。
10日後の1月27日には、せりを再開することができた。産地から花が集まるか、花屋さんが来ていただけるか・・・
増田慎治の心配を吹き飛ばすように、交通網混乱の中、通常の6割以上の花が入荷した。80人の花屋さんがせりに来てくれた。生産者も花屋さんも、市場の再開を待っていてくれた。
赤やピンクの洋花がよく売れた。
灰色のがれきの街。
神戸市民は、気持ちを明るくしてくれる1輪の花を、待ち望んでいた。
(愛されつづけて100年 カーネーション生産の歴史)
花をつくる人、運ぶ人、せりで売る人、買う人、お客さまに売る人・・・
花産業で働く人、それぞれが使命を果たす。
いま、1輪の花を待ち望んでいる人がいます。
使命を果たす・・・